35.「ペットロス」~亡くなったその時、私は、ほっとした・・・Ⅱ~

そして、ほっとする。
そのすべてが、同じ心の中にあって、グルグル駆け巡る・・・。
「もう一度なでたい」
「玄関を開けたら駆け寄ってきてほしい」
「抱きしめた時の感触をもう一度感じたい」
そう思われていることこそ、
あの子がどれほど大切な存在だったのかを物語っているのではないでしょうか。

もし本当に愛していなかったのなら、今こんなにも会いたくて、
こんなにも自分を責めることはないと思います。
最後の日だけの自分の心を見て、判断しないでください。
一緒に過ごした時間が長くても、そして不幸にも短かったにしても暮らしたその一日一日があの子には「愛されていた時間」であり、その日々には十分に意味があったはずです。

私なりの解釈はその「ほっとした」という心は、きっと苦しみを終わらせてやる事ができた。そして近い日に訪れる別れの恐怖を終わらせる事ができたという感情からの「ほっとした」だったと思います。悲しみと安堵、寂しさと安心。
一見すると相反するような気持ちが、同じ瞬間に心の中に存在することは、決しておかしなことではありません。
それは、愛していなかったからではなく、愛していたからこそ生まれることのある、ひとつの心の動きなのだと思います。

同じ思いをされている方、どうかご自身を責めることだけは、少しずつ手放してください。
私たちは火葬というお見送りのお手伝いをしています。けれど、私たちが最後にお預かりしているのは、小さな体だけではないと思っています。そこには、その子とご家族が一緒に過ごしてきた年月や、言葉にできないほどの想い、
そして「ありがとう」がたくさん詰まっています。
だから私たちは、
お別れとは「いなくなること」だけではないと思っています。
姿がなくなったあとも、その子が残してくれたものは、心の中に生き続けます。
ふとした時に思い出す顔。足音のように感じる気配。いつもの場所を見てしまうこと。
名前を呼びたくなること。それは、忘れられないから苦しいのではなく、
一緒に生き抜いた日々の想い出なのです。

「あの時ほっとしてしまった自分」を、
責めている方・・・もう十分です。自分を責めるあなたよりも、想い出を懐かしんでくれるあなたが、きっとあの子は好きです。あの子が安心して見ていられるように、あなた自身の心も少しずつ休ませてあげてください。
最後の日だけが、すべてではありません。一緒にいきた日々があったはずです。
同じ思いで苦しまれている方・・・少しずつ穏やかな時間が戻ってくることを、心より願っています。

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